100年の歩み
本学院が誕生するにあたって、一人の少女にまつわるエピソードがあります。
1914(大正3)年、北米オハイオ州に住むJ・ウォーレン・ジェームズ夫妻に、ジャニスという娘がいました。ジャニスは幼くして信仰と愛に富み、日本で行われている伝道の話を聞いていたそうです。ジャニスは、大きくなったら日本へ行って、宣教師になりたいと希望するようになりました。しかし不幸なことに、8歳の時、ジャニスは突然召天してしまいます。その頃、日本に女学校を建てるための募金運動が開始されたことを、ジェームズ夫妻が知り、これこそ亡き娘の望みに沿う神の定めた計画にちがいないと信じ、多額の寄付を申し出ました。ジャニス・ジェームズという少女の心に宿していた希望こそ、学校のめざすものと同じであるところから、米国の募金本部は、この新しい学校の名称を「ジャニス・ジェームズ・スクール」と命名し、日米間の控文書にはこの校名が用いられ、また当時の校門には「九州女学院」と並んで"Janice James School"の校名が掲げられました。
1926(大正15)年、九州ルーテル学院の前身である九州女学院初代学院長に就任しました。
開校初年度の入学者数は70名で、エカードはすべての名前を覚え、「さん」付けで呼んでいました。おそらく、母校マリオンカレッジのような温かいクリスチャンスクールの雰囲気にあふれていたと思われます。太平洋戦争のために1941(昭和16)年に帰国を余儀なくされ、日本を離れましたが、終戦後の1946(昭和21)年、エカードは、スクールモットーである『感恩奉仕』(神の愛に感謝し、隣人への奉仕に生きること)を体現するように、いち早く熊本に戻り、戦時中軍国主義の支配下にあった学院の立て直しに献身しました。1955(昭和30)年、引退して帰国。九州女学院との別れにあたり、次の言葉を残しています。「私は、自分の生涯を振り返り、三つの幸せを持つことができた。一つ目は私が若い日にイエス様に出会えたこと。二つ目は私が神様に導かれて、九州女学院にくることができたこと。三つ目は九州女学院で学んだ多くの卒業生たちが、母となり、あるいは様々な職場で働きながら、学院で学んだことを心に秘めつつ、美しく生きていることを信じることができること」。1969(昭和44)年、ワシントンD.C.にて召天。82歳。生涯『感恩奉仕』の人でした。